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「在宅は万能ではない」──二人の家族の受け止めの違いは「納得」感だった【言薬®】

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ご紹介している書籍は、看護師みやみーが実際に読み、現場の感覚と重なった一冊です。

はじめに:日々の業務からは見えないこと

訪問看護は、介護保険や医療保険を利用してサービスを提供することが多い仕事です。
こんなことを言うと驚かれるかもしれませんが、ご逝去された後——
死亡診断がなされた後は、保険適応されるサービスはありません。

ですから、お看取りを終えて悲しみにくれているご家族から私たちが受け取るのは、
ほとんどの場合「感謝の言葉」です。

——けれど、その感謝の中に、本当はどんな思いが折りたたまれていたのか。
私たちは、それをどこまで知ることができているでしょうか。

訪問看護の評価を、感謝の言葉だけで判断していいものか。
最近、立て続けに二人の方からいただいた言葉が、
私にそのことを問い直させました。

緩和ケア医・大坂巌先生の『納得する生き方』

このシリーズ「言薬®」では、これまでも何度かご紹介してきましたが、
緩和ケア科の医師・大坂巌先生が提唱される 言薬® という考え方があります。

思いやりのある肯定的な言葉は、薬になる。

オハナなおうちでは、その言葉たちを「心のお薬箱に入れておける常備薬」として、ブログやInstagramで届けています。

そんな大坂先生の著書、
『納得する生き方:明日死ぬとしたら、あなたは今日、どう生きますか?』
(KKロングセラーズ、2025年8月)の第5章には、

「迷い」「後悔」をなくすためにできること

というテーマが扱われています。

その中の一節、

納得できるプロセスを踏む

——という指針が、私の中で最近、強く響いています。

同じ在宅、違う着地——納得というもうひとつの支え

ここから、二人の現役訪問看護師の話を紹介します。
どちらも、看護師である自分の家族を、在宅で看取った人たちです。

Aさんの場合:「託せたから、家族でいられた」

Aさんは、最初、地元のご家族の元に戻って介護をしていました。
しかし仕事を長期に休まざるを得ない状況に、ご家族が悩み、
家族会議の末に、Aさんが住む街での介護へと切り替えることになりました。

仕事を続けながら、訪問看護を入れての介護生活。
業務として人の看取りに日々関わる訪問看護師が、自分の親をも看取る——
その辛さは、想像以上だったと思います。

それでも彼女は、こう話してくれました。

「父の看護を訪問看護に任せられるから、私は娘でいられる。
地元で全部背負っていた時には、気づかなかった」

託せる先があるからこそ、家族として隣にいられる。
これは在宅ケアの、見えにくいけれど確かな価値だと、
あらためて教えてもらった気がします。

Bさんの場合:「看護師として見られて、家族で在れなかった」

一方、Bさんは最初から在宅サービスを入れて、看取りまでを過ごしました。
それでも、深い後悔と、引きずるような思いが残った——と、
昨晩の面会で、初めて聞きました。

支援者から「看護師である家族」として扱われることが続き、
専門的な説明や、看護師目線での関わりを期待される場面が多かった。

「私はただ、娘でいたかったんです」

その言葉が、しずかに重く響きました。

違いは、「納得できるプロセス」だったのかもしれない

客観的にみれば、お二人の「看護師としての濃淡」に、大きな差はありません。
それでも、看取りの後の心の着地点は、まったく違っていました。

何が違ったのか。
私には、それは 納得感 だったように思えてなりません。

Aさんは、家族会議という納得のプロセスを経て、
自分の生活を保ちながら介護する選択を、自分で選んだ。
Bさんは、在宅への期待が大きかった分、
「家族で在れなかった」という落胆が、
価値観そのものを揺るがしてしまった。

大坂先生が示される 「納得できるプロセスを踏む」 という指針は、
この違いを、くっきりと照らしてくれた気がします。

在宅療養は、万能ではない

在宅で過ごせることが、すべての人にとって最善とは限らない。
これは、訪問看護に関わる立場として、心に留めておかなければならないことだと思います。

期待が大きいほど、それが裏切られたときの落胆は深い。
そして、看取りという やり直しのきかない時間 ほど、
その落胆は人の価値観を変えてしまうこともある。

納得には、時間と余裕がいる

本来、こうした選択には、自分の中で噛み砕いて解釈する時間が必要です。
けれど現実には、状態の変化や周囲の事情で、そんな余裕が与えられないことのほうが多い。

大坂先生は、第5章でこんな言葉も贈っています。

  • 知らない不安より、知りすぎない安心を
  • 一人で決めなくてもいい。信頼できる人と一緒に悩めばいい
  • まだ早いと思っているうちに、遅くなる

支援する側にできることがあるとすれば——
その人がその人として、納得して時間を過ごせるよう、
グラデーションに寄り添うことなのかもしれません。

属性や役割で決めつけず、
看護師である家族も、社長として生きてきた方も、認知症と診断された方も、
その人がその属性をどう持っていたいか は、本人にしかわかりません。
スティグマとして避けたい方もいれば、勲章として誇りたい方もいる。

ゼロかヒャクかで決めない。
グラデーションを尊重する。
そのことが、納得を支える土台になると感じています。

語ることを、避けないでほしい

日本では、終わったことを——とくに死にまつわることを——
あれこれ語ることを避ける文化があります。
「もう終わったことだから」「言っても仕方ないから」と、
飲み込まれていく言葉が、たくさんある。

けれど、勇気を出して話してくれた人の言葉には、確かな意味があります。
それを聞かせてもらえたなら、私たちはしっかりと胸に刻む必要がある。

AさんとBさん、お二人の言葉は、私にとって学び直しの夜になりました。
昨晩の面会がなければ、私はまだ気づいていなかったと思います。

おわりに

在宅は、万能ではありません。
けれど、納得して選び、納得して過ごし、納得して見送れたなら——
その時間は、家族にとっても、その人自身にとっても、確かな支えになる。

私はこれからも、目の前の方とそのご家族に、
グラデーションのある関わり方で寄り添っていきたいと思います。

答えは、まだ出ていません。
それでも、考え続けることをやめずにいたい。

勇気をくれたお二人に、心から感謝を込めて。


📖 大坂巌医師の著書『納得する生き方』

『納得する生き方:明日死ぬとしたら、あなたは今日、どう生きますか?』
(KKロングセラーズ、2025年8月)

緩和ケアの現場で多くの方に寄り添ってこられた大坂先生の言葉は、
医療者にも、ご家族にも、ご本人にも、静かに灯をともしてくれます。

オハナな縁側から、ひとこと

家に帰ってからずっと考えていました。

「在宅で看取る」を振り返った時、心の着地はそれぞれのものであること。
そして、その違いを生むのは「制度」でも「環境」でもなく、その人がどれだけ”納得できる”と感じられることかもしれないと。

私は訪問看護師として、つい「いい在宅看取りだったか」という評価を知りたくなるのは、看護師の性なのかもしれません。でも本当に大事なのは、遺された人が時間をかけながら少しずつ消化して「あれでよかった」と、自分の言葉で言えるかどうか。そこに寄り添える看護師でありたいと、改めて思った午後でした。

託せる人がいて、託せる時間があったこと。それは、ぜいたくなことではなく、本当はみんなに必要なことなのだと思います。

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