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オハナな管理人日誌weekly 2024.10.30→11.6

Instagramで投稿中のオハナなおうちの『オハナな管理日誌』のweeklyバージョンです。ダイジェストというより、リライトや加筆をしていることが多いかもです笑。管理人のバイアスが100%かかっておりますが、在宅看護の枝葉としての読みものとして楽しんで頂けたら幸いです。

人生はミネストローネ

《オハナな管理人日誌 2024.10.30》

 好きや興味で始めたことであっても、モチベーションって保つのって本当に難しいものです。だんだんできない理由を探して自分に言い訳する自分に気付きます。小さいことも、大きいことも、今まで幾度となく経験してきたなぁ…。そんな三日坊主の正体は、慣れ親しんだことを続けることにはストレスを感じませんが、新しいことを始めるのは大変ストレスになるという脳の自然な反応で、割と思い当たりますよね。だからこそ、脳の処理変化の仕組みを上手に利用して脳を手懐ける作戦があります。
①ベビーステップのような小さな変化だと脳の抵抗を抑えられる。
②目的を明確にして、とりあえず習慣化しモチベーションを維持する。
③シンプルな方法で記録をつける。
④約30日間継続できれば新しい習慣が体に「いつも通り」と認識されやすくなる。
三日坊主は素直な意志の弱さではなく、脳の仕組みに深く関係しています。この仕組みを考えて、適切な対策を慎重にすることで、新しい習慣を定着させることが可能になります。変化への抑止力は種の保存のための正常なDNAプログラムなので当然のことなのです。少数派の突然変異のDNAのお持ちの皆さんが、いわゆるTHE変態ですよ。その変態の突拍子もないことがバズり、次の進化の礎となることを繰り返して、35億年経っても地球の上で生きている理由のひとつなのでしょうね。

 脱線しすぎました💦壮大な話からちっぽけな視点に戻しますが、この日誌が100回を迎えました🙌 変態の領域までいけるのかどうかわかりませんが、自分の考えや感情、経験、体験、哲学…すべてまるごとミネストローネのようにコトコト煮込んだものをこれからも味わっていただけたら嬉しいです。

 友人・知人・家族の皆様へ
ここには私のすべての大切なものが詰まっています。よかったらいつでも訪れてください。いつか私が次の世界に旅立った後に、次に会えるまでの皆さんの支えになりますように。そんな心持ちでこれからも言葉をつづります。

Kindness やさしさ

《オハナな管理人日誌 2024.10.31〜11.6》

やさしさに包まれたなら

 ご縁があって知り合った仲間、ゆーみんと一緒にお仕事することとなりました。ゆーみんとの出会いは運命的としか言いようがないくらいで、この素晴らしき訪問看護の世界へようこそ、BGMはルイ・アームストロングの「What A Wonderful World 」が流れるのですよ。それはさておき、そろそろ環境にも慣れてきたゆーみんが『本当にみなさんやさしくて、利用者さんだけではなくて、スタッフどうしもやさしくて…』と感極まってお話されることが私にとっては新鮮でした。やさしい温度に浸かってぬくぬくしているけど、そういえばそうだなあ、ぬくぬくの外は確かにあると思うけど、ぬくぬくしているわ笑。やさしさの正体は脳内ホルモンオキシトシンだと脳科学的にも認められ、市民権を得ているホルモンが作用することによって生まれる感情です。味気ない言い方をすると、脳が認識した際にその何かをどう捉えるかによって、オキシトシンがでるかでないかということで、やさしさが生まれるかどうかということになります。実は優しさは、文化的背景や社会的な相互作用から生まれるものなので、ホルモン分泌以前に、『脳がどう捉えるのか』ということがキーになりそうです。

情けは人の為にならず

 日本語の「優しさ」は、もともと「痩せるほどつらい」や「慎み深い」という意味を持ち、他者への思いやりや利他的な行動として進化しました。また、優しさは社会的な評価を高め、他者からの親切を引き寄せる「社会間接互恵性」としても機能します。社会間接互恵性とは、他者に対する利他行動が回り回って別の他者から報われる仕組みで、「情けは人の為ならず」という諺で表現されます。

 そうそう!認知症のやすこ先生が父親の教えとして繰り返して説いてくださる言葉ですよ、私もこの考えは好きですね、やさしさが世界中をぐるぐる、ぐるぐると循環したら、もう少し世間に流れる空気は温かくなるのではと妄想してしまいます。世知辛いとはいえ、せめても自分の手の届く小さな世界においては心地よくありたいものです。

 『さらに人間関係においては共感力が重要であり、相手の気持ちに寄り添うことで優しさが表現されます。』(AIのくせによく言いますね、笑。)目視できない不確かなものを、『相手の気持ち』という自分の力が及ばない世界であるにも関わらず、寄り添えたと評価できたのなら、独りよがりで自己有用感のための『やさしさ』なんじゃないの?と猜疑心とへそ曲がりのアンテナがピコピコ鳴ってしまいます。

やさしさの根源

〈元東京女子医科大学名誉教授 仁志田博司著人間工学38巻Supplement号1998年より一部引用〉

1.やさしさとはなにか

「やさしさ」がなければ人は生きて行けないのです。
神聖ローマ帝国の皇帝フリードリッヒ二世(1194~1250)は、人類の言語の起源を確かめたいと思って、一つの実験を行いました。『人間の言葉をいっさい聞かずに育った子は、人類の根元語を話すに違いない』という仮説を立て、皇帝は生まれたばかりで捨てられた赤ちゃんを50人選んで、保母や看護婦に養育させることにし、そのとき赤ちゃんに話しかけたり、あやしたり、機嫌をとったり、愛撫したりしては絶対にいけないと厳命しました。入浴や食事など生命維持に必要なことはもちろん許しましたが、人間的接触を禁じました。この実験の結果は出ませんでした。なぜなら、実験に使われた赤ちゃんたちがあまり大きくならないうちに全員死んでしまったという信じがたい結果になったのです。愛情や人間的出会いがないと、人間は生きることができないのです。それは人間はDNAに書き込まれた本能という情報だけでは生きて行けない生き物であり、他から与えられる愛情や優しさと言う情報が生きていく上に不可欠な事の証明になってしまったのです。「人」という字はふたりが寄り添い支え合っている象形であり、 また「人間」とは漢音で 「じんかん」と読み、人は他者との共生関係なしには生られない存在である事を意味します。その人と人の間「じんかん」を取り持つグルーのようなものが「優しさ」であり、 それは人が生て行くための環境である人の輪としての社会を型造る根元的なものなのです。

2.人はいかにして優しさを学ぶか。

インドで狼に育てられた双児の兄弟が発見され、その後人間に育てられたのですが社会性を身につける事は終生できなかったというお話はご存じの方も多いのではないでしょうか。また母親の愛情を受けずに育てられた子供は、 母親のみならず他人との交流が出来ず感情のない能面のような表情になる事が知られています(愛情遮断症候群)。 これらのことから、社会で生きる上に最も大切な優しさ は幼児期に学ぶものであり、しかもその時期は感受性が高い特別な時期(感応期)であり、一生の優しさの形成の土台となる事が知られるようになりました。人は育まれ優しさを学ぶ 。育むとは 「羽含む」を語源とし、鳥がひたすら卵を抱き自分の体温で暖める姿からきています。人類は知性を獲得した代償として未熟性を持って出生するところから、6ヶ月以上の長きに渡って母親の胸に抱かれ、その乳を吸わなければ生きられない哺乳動物だと言えるでしょう。それは鳥が卵を抱く姿となんら変わず、そこには子供に対する投資的な打算はなく、只ひたすら体温または母乳と言う愛情(agape)を注ぐことのみなのです。そのことによって、子供はこの世の中に絶対的に自分を愛してくれる人がいる事を心の中に焼きつけることになり、それが優しさの根源となるのです。

3.優しさがなぜ社会を型つくるグルー(接着剤) となるか。

この世界はすべて連続である。時間も空間もさらにクオークのレベルまで考えれば物質までも連続である。 同様に人間と他の動物のみならずアメーバ に至るまで共通の分子生物学的約束事がある。さらにはDNAのレベルまで考えれば生命と物質さえも連続なのである。今 話題の脳死は言うに及ばず、臓器死 、組織死さらに細胞死まで考えれば、生と死の狭間さえ連続と捕らえる事ができる。 しかし人はそれらを生きる知恵として不連続にとらえている。(連続と不連続の考え) 36人間工学第34巻 特別号 人は一人一人全て異なっている。それは遺伝情報であるDNAが異なっている以上にその遺伝情報を賦活する環境が異なっているからである。 しかしすべての人は基本的な生命体としての情報は99%以上同じものを有しており、知的障害においても身体的障害においてもどこから正常でどこから異常かを明確に分ける事は出来ない 。さらに人の一生を考えれば、 弱い赤ちやんとして生まれ、 必ず弱い老人になり、 またいつ紙一重で障害者になるかしれない事を考えれば、人は各々異なっているが、 自分と他人の連続性を感じざるをえない。

いきなり難解…。連続な世界観という壮大な視座は日常では気がつきません。少なくとも私にとっては😅「生きる知恵は無意識の中で不連続でとらえる」不勉強ながらも、現代社会においては専門細分化を感じます。とかく医学界は人体を臓器で切り分けてマクロな世界で診断されますが、心臓も脳も胃腸も手足も私という人間としての連続体として診る大切さを感じることもあります。バラバラに切り分けられた世界を、元通りのひとつの体につなぎ合わせ連続する人生として返還することが尊厳に値することなのかもしれません。

しかし社会の機能を保つためには、命令し指導する人とそれに従う人のように、 また社会生活をし得ない障害者と健常人のように、人も不連続に捕らえなければならない。その時に、我と汝(マルチンブーバーの言うbetween man and man)は人間(じんかん)であることを考えれば、その連続性に気付き、ただ切り捨てるのではなく痛みを感じ涙して一線を画するであろう。人と人の連続性を知る事が思いやりであり、優しさを生み出す源泉となる。このともすれば摩擦が起こり得る人と人の擦れ合いを、クッションのように和らげそして結び付けるグルーが優しさである。

いやはや参りました。ドイツの哲学者マルティン・ブーバーの『我と汝』の解説となると、力不足で尻込みしてしまいます。あくまでも上っ面の概念でいうと、『我』と『汝』とは双方の関係性による対話の哲学で、我が一方的に相手を理解したと思い込む関係性では相手を物扱いしていると同じ、『我』と『それ』でしかない。そして彼の哲学はユダヤ教への理解をも求められるので、さらに難解な思想と言えます😢それは棚に上げておくとして、社会性の中で不連続である個と個との関係では『それ』でしかない痛みに気づき、わかり合いたいという姿勢が優しさを生み出し『汝』に近づくことができると言えるのでしょうね。

        

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